言葉のランドスケープ

日々のときめき・きらめきを見つめて

ギフト

わたしはそこそこに優れた勘の持ち主ではあるものの、ちまたにいる霊力や超能力を使える人たちに比べればその勘はあまりにも素朴だし、自分の命に関わる範囲のこと、ぐらいでしか発揮できてはいません。

けれど、そんな凡なわたしへも、不可思議な現象がするりと入り込んでくることは何度となくあって、そのたびに驚いたり喜んだりすることがあっても、悲しむようなことは1度だって起きなかったから、目視できないふしぎな計らいは、手で触れられるとしたら暖かくて、いつだって人間の味方なのだと信じるようになっていった。

際だってふしぎなことが舞い込むのは、睡眠から意識の陸まで上がってくる直前の、夢の浅瀬へとまよいこんだ時で、お地蔵さんやUFOが部屋に入ってきたことが感覚としてわかることもあった。

(UFOは臨場感の演出か、オマケ精神からか、船体からとってもかわいい音を鳴らしてくれていた。 )

大学生の頃、浅瀬を通過する一瞬に
『子供が五体満足で産まれてきてくれたら、それだけでもう親は充分なんだ』と、今までに考え付いたことの無い思想が流れ込んできたことがあった。

それに気付けたことが嬉しいのか、そうじゃない家庭もある事実が悲しいのか、よく分からないけれど涙を流しながら目が覚めて、釈然としないままにバイトへ行ったら、いつも一緒に働いているパートさんから

『わたし、今日障害者の子供を持つお母さんになる夢を見たんだ』と言われた際は、さすがに驚いてしまった。

夢のことを打ち明けてみたところ、そのパートさんは精神世界にすこしばかり知識のある人だったため
『わたし達ソウルメイトかもしれないね!』との見解をさらりと示してくれた。

それを聴いたわたしの心情はというと、さっきまで
『あの涙の水源はどこにあって、どんな往路を通ったのちにわたしへ辿られてきたんだろう』と、思い浮かべた情景の中を、うっとり小旅行している気分だったのに

『ここの水道共有で使ってるよね!』と、ピンポイントの蛇口を指差されたような気がして、広大な情景が一気にしぼみこんでゆくのを感じずにはいられなかった。

究極の言葉に束ねられることで、かえって神秘さが損なわれることもあるんだな、と思い知る経験にもなった。

今となれば、ほぼ毎日会うことで確実に影響を与え合っていたんだから、そんなたいそうなグループ同士でなくたって、起こり得そうな話のようにも思う。

わたしが経験してきた不思議めいたことたちは、ただの寝ぼけ話にも取れることであって、ちがう価値観をもつ人たちへ
『こういう事は日常にありふれているのだ』と、何がなんでも主張を通したいわけでは決してありません。

ここまでを前置きに、いまからわたしにとって、何より印象深くて鮮烈で、世界へもっともっと腰を下ろしても良いんじゃないかな、と安堵させられた、不思議な夢の体験について書いてみようと思います。

* *

そのときに見た浅瀬での夢の映像は、わたしの正面1センチ前に、黒い緞帳が垂れ下がっているかのように真っ暗で、どういう状況か、わかるはずもないというのに
『ここ、わたしを産むときのお母さんの意識の中だ』と、あっさり確信して、まるで母と一体化したような心地よさに浸っていたら、目の前に、大きな花火が音を立てながらめいいっぱいに開けるのが見えた。
黒い緞帳を背景にして、色がパチパチ弾けていた。

それを目にして、熱さが胸元から込み上げてきたけれど、色とりどりの火花が黒い布へゆっくり吸われてゆくのを眺めていたら、高揚感は幸福感へ移り代わって、身体全体へ、残すところなんてないくらいに染み渡ってゆくようだった。

それからしばらくして、少し離れた場所に2発目の花火があがるのが見えて、妹が生まれたんだと分かった。
さっきとは少し違う振動が身体を揺らしていたけれど、それでも幸せな事に違いは無かった。

『お母さん、あのとき、こんな気持ちでいてくれたんだ』

そう強く思った途端に “思いっきり” 目を覚ました。
あぁただの夢だったんだ。

熱さは身体の端々にまでしっかり残っているのに、これほど感情を揺さぶられて、生々しかったっていうのに、全部わたしが創造した夢なんだな、つまらないな・・・

なんて、冷静に考えだしたところで、さっきとはまた別の幸福感が沸き起こってきて、わたしの目をもう1度覚まさせた。

『そうだ、夢でちっともかまわないじゃないか!
だってあの映像を創り出して、あんな解釈をして、あれだけの幸福感に包まれていたこと、そのものが、わたしと妹を迎えたことをお母さんはちっとも後悔なんかしてないんだって、そう、

“わたし自身が!”

微塵も疑ってなんかない、という証なのだから!』

凄い、すごい!
わたしの懐に、こんな世界への信頼が忍ばされていたなんて。こんなギフトが届けられる朝があるなんて。

そして、それをわたしへ送り届けてくれたのは、紛れもなく自分自身だということがいっそう嬉しくて、わたしの奥底に住んでいる、また別の“わたし”の存在に気が付き始めた。

きっと大勢いる“わたし”の中のひとりの彼女は、深海くらいに深いけれど暗さのない、暑くも寒くもない心地のよい部屋にひとりで住んでいて、そこから毎日両手いっぱいに持てる分のギフトを抱えながら、あの浅瀬の場所までわたしを尋ねにきてくれているのだ。

その待ち合わせ場所には1枚の扉が構えていて、それが彼女とわたしを繋ぐ媒体になっている。

扉の前に着いた彼女は
『今日は会えるかな?渡せるかな?』と扉をじっと見つめて、開かれることを待ち望んでいるけれど、閉じたままのことの方がずっと多いから、肩を落としてばかりだろう、帰り道の光景を思い浮かべると、ちょっと切なくなる。

『開いてほしい』の願望とは別の作用で開く扉の鍵を握っているのは、現実を生きる、こちら側にいるわたしの方だ。

鍵となるのは、よい行いをたくさんするとか、あらゆることに感謝をするとか、そんな標語のような取り組みの事では決してない。

身体で認識できるくらいの距離の中にある、そこかしこにあふれているのに、うっかりしていたら見逃してしまいそうに細やかな、人が後ろに組んだ手の中に隠し持っている、善意や誠意、やさしさ。
それらを健やかな目線ですくいあげてゆくこと。
それだけを試されている気がする。

その仕事の積み重ねの先に、ある朝ふいに扉が開かれて、待望の再会に彼女はニコニコしながらギフトをわたしの手のひらへと乗せてくる。
軽やかなそれらはわたしが欲しくてたまらなかったものへと成り代わり、わたしの中を一巡り、とくとくと潤わせて
『最初からすべて持っているんだ』そのことを思い出させてくれる。

扉が閉まると、彼女は空いた手を風と遊ばせながら、足元を弾かせて部屋へと帰ってゆく。

そして、今日の成果に甘えたりなんかせず、明日だって同じように、扉の前まで素敵なものを運びつづけてくれるのだ。
決して怠けたりなんかはせずに、外側にいるわたしの時間が尽きるまで。

もとは1つの命を、いくつかに、あるいは無限に分けて、それらをあらゆる層の何点にも配置して、どこかが陰りそうになったときには他の自分がそっと光を当てがう。
きっとそうやって、命は立体的に輝いているのだ。

どうか不思議なことを不思議なままに見つめて、触れた時には、力をみなぎらせられるわたしでありますように。
奥にいる彼女にも届くように願いをかけた。

自分の作業をしていた彼女にやわらかな光が当てられて、あげた顔には、ほほえみが咲いていた。

それを見たわたしの方だって、嬉しくてたまらなかった。

Arisa