言葉のランドスケープ

日々のときめき・きらめきを見つめて

眼差しをおすそわけ

少し足を伸ばせば会える距離に住んでいるのに、なんとなく疎遠だった伯父(父の5歳離れたお兄さん)と去年から交流することが増えた。

幼少時代をふたたび繰り返すかのように、姪であるわたしを気にかけてくれて、こんないい歳だっていうのにお年玉を贈ってくれたり、職場のお店までわざわざ来て、オリジナルカードを200枚注文してくれたこともある。

時間さえあれば家の近所を散歩したり、鴨川のほとりで本を読んだり、ひとりで悠然と過ごすことが好きな伯父に、カードを配る相手が200人もいるとは到底思えない。

こんなに頼んでどうするの、ムリしなくていいからと心配して言ったら
『死ぬまでに配るから大丈夫!』と返されて、なんだかおかしくて笑えてしまったけれど、伯父が手渡したい優しさのかたちを、こちらの申し訳なさで崩してはならないな、少しも取りこぼすことなく、受け取らなきゃいけないなと思い直させられてしまった。

アパレル会社で営業職をしたり、介護タクシーの運転手をしたりと、様々な職種に就いてきた伯父だけれど、彼に人生をかけて取り組む仕事がひとつあるとしたら、それは信仰心を育てることだろうなと、傍目から見ていてそう思う。

自身の内に見つめ出した、煌めいていた部分を、丁寧にこつこつ磨き続けてきて、でもそれを誰かや身近な家族へも押し付けたりはせず、称賛を欲しがったりもしない、本当の意味で自立した人なのだ。

そんな伯父の口から親類が集まった際に、子供時代の思い出が語られることがあった。

『昔、知り合いが入院するときに、実家から病院まで布団を運んだことがあってな。進(私の父)が俺の後ろを必死に、チョコチョコ付いてきてたのを覚えてるわ』

たったそれだけ、なんて事のない話なのに、そのときの父の姿を思い浮かべたら涙ぐんできて、どうにかしてその時代へ飛んで、今のわたしの腕にすっぽり収まるほどの小ささの、幼い父を抱きしめに行けたらいいのにと、途方もないことを願ってしまった。

私が出逢えたのは、いつも何かに追いたてられているように、せわしなさの中を生きている父だけだった。
だから、ただ好きなお兄ちゃんを無邪気に追いかけていた時代があった事を、追いかけられていた本人から、父を心底可愛がってくれた人のまなざしから知れて、嬉しくてたまらなかった。

父が仕事であげた功績や、周りからどれだけ頼りされていたかを聞いた時にも、こんな気持ちにはなれなかったっていうのに。
その人を本当に好きだった人間からしてみたら、社会へ高尚なものを残して、記憶の中で偉大な人とされるよりも、世界で夢中になっていたものがあった事実の方がずっと喜ばしくて、こんなにも救われるのだと、思い知らされてしまった。

伯父の昔話はその後も延々と続き、身近な親類の話題に移っていた。
『俺がおじいさんを嫌いになったのは、幼い頃から悪口を吹き込まれていたからなんやろうなー。疑う余地なく嫌っていたもんな』
『子供にしてみたら、母親から父親の悪口を聞かされるのはサイアク!父親から母親の悪口を聞かされるのもサイアクなんやな、これが!』

あ、それ、心理学でよく言われているやつだ。
伯父ちゃん、その見解きっと合ってるよ・・・と、伯父の言葉や気付きに、深く頭を下げたくなった。

そういうことを専門家から知識として教わって、テンポよく、自分や他人の人生を展開させてゆく有意義さは確固としてあるだろうし、その加速を増している時代の流れに、わたし自身乗っていることにも自覚はあります。

けれど、大切なことへ辿る道はいつでも自分のそばに拓かれていて、時間がうんと経って振り返った時に、思い出の居場所から真理をすくいあげることだって、尊さで言えば全くもって等しいに違いないのだから。

知識を持つことで、下手すれば
『私は真実を知っています』なんて尊大な態度を取ってしまうのはとてつもなく恐いことだから、このことをちゃんと覚えておこうと思った。

そして亡くなってしまった人の分も含めて、一個人が見つけた気付きの灯火は、ささやかで、誰かに打ち明けられることが無かったとしても、表舞台に出ている心理学(もしくは全く違うジャンルでも)の一部にきっと組み込まれていて、いま生きている人がトラウマを越えようとしたり、新しい道へ踏み出そうとするときに傍へ来て、そこからしか掛けられない力で、そっと背中を押してくれているんだと思う。

人様からネガティブだね、と言われる時もあるけれど、いやいやきっと、そればかりのわたしじゃない。
だってあの世までをも性善説で見通して、優しい気配は世界や時代を越えて到達すると信じているもの。
これをおめでたいと言わずに、なんと呼ぶのだ。

その眼差しから見える光景が、近くでも、遠くでもいいから、またどこかで誰かの光へなってくれていたらば。
その場面に生きている間は立ち会えないかもしれないけど、別の自由を纏えたときに目撃しにいけるはず、と思っていたい。
その方が楽しいし、心はどこまでも垣根なしに拡がってゆける予感がある。

なんだかそれは信仰の本来の目的にかなっていて、知らず知らずのうちに、わたしもがっちり支えられているようだから、大勢の人や神様が詰めこまれた、自分だけの信仰を大切にたいせつに持ち続けよう、そんな風に、思わずにはいられなかった。

Arisa

また目が合う時までに

もう疎遠になってしばらく経つけれど、あれほど濃密に時間を共有し合えた彼女がもたらしてくれたものは、今もふんだんにわたしのなかに残ってくれているなと、つくづく思う。

彼女との時間において
『この友情はどの方位から眺めても美しいに違いない』と思い込んだわたしは、相手や自分を尊ぶために、見つめなきゃならない細やかなところを省みなくなっていき、どんどん彼女へ甘え、もたれ掛かり、ついには憤慨させるかたちで離ればなれになった。

最後に本心を聞いた時は、反省もショックもあったけれど、どこか
『やっぱりずっと怒ってたよね』と、ようやく確認を取れたんだ、という手ごたえすらあった。
(こうして書いてみるとまったくもって悪趣味)

そして少し時間が過ぎてから、わたしはわたしで、嫌な役回りをさせるよう上手に仕向けてくる彼女に対して、内心では静かな怒りがあったことに気付かされた。
そういう仕掛けをかわせるに越したことはないけれど、もしそんな自分だったとしたら、彼女と親しくなれていなかった気がする。

いつも冴えた予感はあるのに、それを見逃すようにして、決定的なことが起きてから、人生観を組み立て直させられてばかりだ。

『いずれ浮かび上がってくることが確実だっていうなら、もう、これからは微かな直感だって絶対にすくい上げるようにしよう。

勘が良いのは絶対に長所だけど、その授けられたものを無かったことにしてしまったら、先にいるわたしが過去の自分をすこし恨んで、その時間に見えていた風景にも陰を射してしまう。

そんなものばかり過去へ送っていちゃいけないな、それが勘が良い人間の責任なんだな』

そんな覚悟を迎えて、ここがわたしの子供時代との、本当のお別れになった。

だから彼女へは、感謝しているとか、申し訳なく思うとか、恨み言がたくさんあるとか、そういうことより何よりも、わたしが大人になる総仕上げの役割を担ってくれたんだと想っている。

・・・その想いの出所は、あまりに複雑な感情に収集がつかなくなったから、ちょっと無機質な概念のなかに記憶を入れ込んでおきたいだけ、かもしれないな。

* *

彼女へ甘え倒していた頃、こんな話をされたことがあった。
その話のなかにだって “彼女とあなたは絶対的に、ちがう人間でしかあり得ないんですよ" なヒントは盛り込まれていた。

『彼に対して “わたし、なんで生きているのかわからない” って話したことがあってね。そしたら彼が “そんなの俺だってわからんで。でも、死ぬよりかはマシやから生きてるだけやで” って言ってくれて、心がすごく楽になったんだよね』

その彼とは顔見知りだったから、ああそんなこと、あっさり言いそうだよな、慰めなんかじゃなく本心だからこそ、彼女のプレッシャーをひとつ軽めてあげられたんだろうな。
そうしっくりしつつも、ふたりのやり取りに対して『ちょっと暗いな』と思う自分の心境に、驚かされていた。

ふたりをバカにしたり、かわいそうと見下したわけでは、絶対にない。

他の人はさも当然のように持っているものが、自分の手元には見あたらなくて、どこで貰ったのか尋ねるのも憚られている気がして、こそこそ探し回ったり、誰かを利用して手にしようとするけど、もうそれら全てのことが、惨めでたまらなくて。

そうだいつか本に書いてあった通りに、ひとつ、ふたつ、みっつと、自分は恵まれているはずの条件を挙げ連ねていけば、現れるかなと試みてみたのに、100個目を絞り出した時に、さっきまでの99個がなんの嵩にもなっていないことを自覚して。
積みあげたかったのは虚しさじゃないんだけどねと、誰かへ悪態をつきそうになった時のこと。

ふたりの言葉を聞いて、そういう時代の自分を思い出したから、決して他人事なんかじゃない。

それでも、ふたりの間から溢れた言葉は、いくら暗い話題に延々まき込まれようが、突かれたくない部分を連打されようが、今のわたしをどんな強力さでもって搾り上げたとしたって、最後の1滴からも出てきやしないんだ、と気付いてしまった。

彼女と知り合えた頃は、地面からすこし浮いた場所で、ふたり共ふわふわと漂っていたけれど、わたしは足元が頼りないまま生きてゆくのに耐えられなかったから、足場を強固することに決めたんだった。

それは自分の方法で、生きざまでもあったから、人へ容易に押し付けるものじゃないと知っていたはずなのに、いつも迷っているように見えた彼女に対して
『そうなんだ、それならこうしてみたら?』『わたしはこうしたけど』なんて、最後に置いていたのは提案ばかりになっていた気がする。

それよりも彼女は彼がくれるような、薄暗くても、だれにとっても目障りにはならない優しさの方が欲しかったし、必要だったのだと、今さらながら理解できる。
グレーゾーンで踏ん張れる力はそれぞれで、どこを鍛えるかは自由なのだから。
   
かたちの違うものが並んでいて、1度に1つしか手に取れなくても、選ばなかったもう片方を尊重することはできるのに、そういう眼差しが足りていなかったのだ。

そして、経験があるからこそ伝えられること、ばかりに注目していたわたしへ、同じ場所に今一緒にいることでしか届けられないものや、過ぎてしまったら寄り添えない領域があることを、教えてくれたようだった。

* *

彼女から最後に、見られたくない一面をちょうど断面にして、切れ味抜群に自分の一部を削ぎ落とされたときは、全裸を世界へ晒されたようで恥ずかしいし、傷口に風は当たって痛くてならなくて
『ひょっとしてあんた、この切り口を見つけるために、ずっと横で潜伏していたんじゃないの?』なんて、疑ってしまったくらいだ。

『あなたについての一切を忘れます』の宣言もされてしまったけれど、わたしの方は彼女を忘れたくなんかない。

出逢えて、親しくなって、織り重ねられた時間のなかには、素晴らしいひとときが無数に煌めいていて、離れる時でさえ大切なことを刻んでいってくれたのだから。

そして予感と同じように、起きた出来事をなかったことにしても、ろくな事にならなさそうだから。

それらを自分の端の端まで追い込んで、はじき出そうとしたって、それは際のところに留まって、目が合うまでこちらをじっと見つめてきて、逃してはくれない。
たくさんの過去を呪って、追いやろうとして、徒労に終わった、かつてのわたしからの教訓です。

ただ、彼女との今生の別れは、まだな気がしてならないんだなぁ。
当たらないでほしくてたまらないけど、未来が正面から迫ってくるのなら、いつ目が合っても恥ずかしくない自分でいたい。

そして予期できないその時に、向こうにだって、自分を恥じたりしないように、ちゃんと備えていて!と願ってしまうあたり、やっぱり彼女との日々はどちらかと言えば、綺麗で暖かいものばかりで作られた世界の方に寄っているんだよな。

それはこの先、どうやったって動かなくて、反対側へ覆ることもないから、良かったなと思う。

それは、世間で美しいとされる概念を先に立ててから、取り出すようにした言葉なんかじゃありません。

ほんとうの、本心からの、言葉です。

Arisa

ギフト

わたしはそこそこに優れた勘の持ち主ではあるものの、ちまたにいる霊力や超能力を使える人たちに比べればその勘はあまりにも素朴だし、自分の命に関わる範囲のこと、ぐらいでしか発揮できてはいません。

けれど、そんな凡なわたしへも、不可思議な現象がするりと入り込んでくることは何度となくあって、そのたびに驚いたり喜んだりすることがあっても、悲しむようなことは1度だって起きなかったから、目視できないふしぎな計らいは、手で触れられるとしたら暖かくて、いつだって人間の味方なのだと信じるようになっていった。

際だってふしぎなことが舞い込むのは、睡眠から意識の陸まで上がってくる直前の、夢の浅瀬へとまよいこんだ時で、お地蔵さんやUFOが部屋に入ってきたことが感覚としてわかることもあった。

(UFOは臨場感の演出か、オマケ精神からか、船体からとってもかわいい音を鳴らしてくれていた。 )

大学生の頃、浅瀬を通過する一瞬に
『子供が五体満足で産まれてきてくれたら、それだけでもう親は充分なんだ』と、今までに考え付いたことの無い思想が流れ込んできたことがあった。

それに気付けたことが嬉しいのか、そうじゃない家庭もある事実が悲しいのか、よく分からないけれど涙を流しながら目が覚めて、釈然としないままにバイトへ行ったら、いつも一緒に働いているパートさんから

『わたし、今日障害者の子供を持つお母さんになる夢を見たんだ』と言われた際は、さすがに驚いてしまった。

夢のことを打ち明けてみたところ、そのパートさんは精神世界にすこしばかり知識のある人だったため
『わたし達ソウルメイトかもしれないね!』との見解をさらりと示してくれた。

それを聴いたわたしの心情はというと、さっきまで
『あの涙の水源はどこにあって、どんな往路を通ったのちにわたしへ辿られてきたんだろう』と、思い浮かべた情景の中を、うっとり小旅行している気分だったのに

『ここの水道共有で使ってるよね!』と、ピンポイントの蛇口を指差されたような気がして、広大な情景が一気にしぼみこんでゆくのを感じずにはいられなかった。

究極の言葉に束ねられることで、かえって神秘さが損なわれることもあるんだな、と思い知る経験にもなった。

今となれば、ほぼ毎日会うことで確実に影響を与え合っていたんだから、そんなたいそうなグループ同士でなくたって、起こり得そうな話のようにも思う。

わたしが経験してきた不思議めいたことたちは、ただの寝ぼけ話にも取れることであって、ちがう価値観をもつ人たちへ
『こういう事は日常にありふれているのだ』と、何がなんでも主張を通したいわけでは決してありません。

ここまでを前置きに、いまからわたしにとって、何より印象深くて鮮烈で、世界へもっともっと腰を下ろしても良いんじゃないかな、と安堵させられた、不思議な夢の体験について書いてみようと思います。

* *

そのときに見た浅瀬での夢の映像は、わたしの正面1センチ前に、黒い緞帳が垂れ下がっているかのように真っ暗で、どういう状況か、わかるはずもないというのに
『ここ、わたしを産むときのお母さんの意識の中だ』と、あっさり確信して、まるで母と一体化したような心地よさに浸っていたら、目の前に、大きな花火が音を立てながらめいいっぱいに開けるのが見えた。
黒い緞帳を背景にして、色がパチパチ弾けていた。

それを目にして、熱さが胸元から込み上げてきたけれど、色とりどりの火花が黒い布へゆっくり吸われてゆくのを眺めていたら、高揚感は幸福感へ移り代わって、身体全体へ、残すところなんてないくらいに染み渡ってゆくようだった。

それからしばらくして、少し離れた場所に2発目の花火があがるのが見えて、妹が生まれたんだと分かった。
さっきとは少し違う振動が身体を揺らしていたけれど、それでも幸せな事に違いは無かった。

『お母さん、あのとき、こんな気持ちでいてくれたんだ』

そう強く思った途端に “思いっきり” 目を覚ました。
あぁただの夢だったんだ。

熱さは身体の端々にまでしっかり残っているのに、これほど感情を揺さぶられて、生々しかったっていうのに、全部わたしが創造した夢なんだな、つまらないな・・・

なんて、冷静に考えだしたところで、さっきとはまた別の幸福感が沸き起こってきて、わたしの目をもう1度覚まさせた。

『そうだ、夢でちっともかまわないじゃないか!
だってあの映像を創り出して、あんな解釈をして、あれだけの幸福感に包まれていたこと、そのものが、わたしと妹を迎えたことをお母さんはちっとも後悔なんかしてないんだって、そう、

“わたし自身が!”

微塵も疑ってなんかない、という証なのだから!』

凄い、すごい!
わたしの懐に、こんな世界への信頼が忍ばされていたなんて。こんなギフトが届けられる朝があるなんて。

そして、それをわたしへ送り届けてくれたのは、紛れもなく自分自身だということがいっそう嬉しくて、わたしの奥底に住んでいる、また別の“わたし”の存在に気が付き始めた。

きっと大勢いる“わたし”の中のひとりの彼女は、深海くらいに深いけれど暗さのない、暑くも寒くもない心地のよい部屋にひとりで住んでいて、そこから毎日両手いっぱいに持てる分のギフトを抱えながら、あの浅瀬の場所までわたしを尋ねにきてくれているのだ。

その待ち合わせ場所には1枚の扉が構えていて、それが彼女とわたしを繋ぐ媒体になっている。

扉の前に着いた彼女は
『今日は会えるかな?渡せるかな?』と扉をじっと見つめて、開かれることを待ち望んでいるけれど、閉じたままのことの方がずっと多いから、肩を落としてばかりだろう、帰り道の光景を思い浮かべると、ちょっと切なくなる。

『開いてほしい』の願望とは別の作用で開く扉の鍵を握っているのは、現実を生きる、こちら側にいるわたしの方だ。

鍵となるのは、よい行いをたくさんするとか、あらゆることに感謝をするとか、そんな標語のような取り組みの事では決してない。

身体で認識できるくらいの距離の中にある、そこかしこにあふれているのに、うっかりしていたら見逃してしまいそうに細やかな、人が後ろに組んだ手の中に隠し持っている、善意や誠意、やさしさ。
それらを健やかな目線ですくいあげてゆくこと。
それだけを試されている気がする。

その仕事の積み重ねの先に、ある朝ふいに扉が開かれて、待望の再会に彼女はニコニコしながらギフトをわたしの手のひらへと乗せてくる。
軽やかなそれらはわたしが欲しくてたまらなかったものへと成り代わり、わたしの中を一巡り、とくとくと潤わせて
『最初からすべて持っているんだ』そのことを思い出させてくれる。

扉が閉まると、彼女は空いた手を風と遊ばせながら、足元を弾かせて部屋へと帰ってゆく。

そして、今日の成果に甘えたりなんかせず、明日だって同じように、扉の前まで素敵なものを運びつづけてくれるのだ。
決して怠けたりなんかはせずに、外側にいるわたしの時間が尽きるまで。

もとは1つの命を、いくつかに、あるいは無限に分けて、それらをあらゆる層の何点にも配置して、どこかが陰りそうになったときには他の自分がそっと光を当てがう。
きっとそうやって、命は立体的に輝いているのだ。

どうか不思議なことを不思議なままに見つめて、触れた時には、力をみなぎらせられるわたしでありますように。
奥にいる彼女にも届くように願いをかけた。

自分の作業をしていた彼女にやわらかな光が当てられて、あげた顔には、ほほえみが咲いていた。

それを見たわたしの方だって、嬉しくてたまらなかった。

Arisa