言葉のランドスケープ

日々のときめき・きらめきを見つめて

優しさまで2万マイル

『小さかった頃に “やさしいEちゃんが好きよ” ってお母さんに言われて、いつも優しい自分でいなくちゃいけないんだ、って思い込んだ』
そんな話を、知人から打ち明けられた事がある。

わが家の場合、そんなプレッシャーは無かったから気楽だったなぁと思った反面、母はわたしを優しい人間とは見つめていない気がして、切なさを覚えてしまった。

* *

ある著名な女性が、交際していた男性に二股を掛けられていたと知って、声を荒げて彼を散々罵ったあとに
『あっちの女のところに行けば!責任取りなよ!こんなに優しいの・・・お釈迦様とわたしぐらいだよ』と言い放った場面の再現映像を観て、とんでもない存在と肩を並べたよこの人と、あらゆる点を押さえて、背筋を凍らせられてしまった。

内省こそ人生、とは言えないけれど、少しでもその心の所作があれば、そんな風に酔ったりできないだろうし、優しさを発揮していた相手が、実はこちら以上に大きい器で、打算も含んだ自分を丸っと受け止めてくれていたと、いずれは気付く事になると思う。

そして優しさの中に厳しさも据えていないと、ただただ緩い、絞まりないものになるけれど、厳しさこそ優しさだと前面に押し出されると、それもまた違うと感じてしまう。

* *

6年ほど前に知人の家で知り合った、少し歳上の女の人は、言葉や芸術で愛を訴えている、立派な思想家と呼べる人だった。
この人物によって、わたしの内面は少しばかり、掻き乱される日々を送る事になる。

その出逢いと時同じくして、当時流行っていたSNSへ入会し、昔の同級生とやり取りを始めたり、好きな雑貨を紹介したりしていた。
そんな軽い感じで留めておけば良かったのに、華やかな日々を過ごしている(ように見えて映る)旧友に比べて、自分は・・・と思えてならない時があって、愚痴みたいなものをその場で吐露してしまう事があった。

それを見かねた思想家のその人から、自分の言葉に責任を持てとたしなめられ、あなたがこれらの発言をしてしまうのは歳のせいかもしれないね、という分析を施された。

大勢の知り合いが見ている場で説教をされたと、恥ずかしさが込み上げてきて、部屋にひとりきりだったけど、顔が真っ赤になっているのが分かった。
言われっぱなしは悔しいから反論して、SNS上で言い争いに発展する始末、だけど向こうのがいくらか饒舌で、言い切りが弱いわたしがどう投げ返したって、敵いはしない気配が立ち込めていた。

だけど、あるターンで唐突に相手がクールダウンして
『あなた、なかなか正直で思慮深いじゃない、そういう所、嫌いじゃないわよ』と返してきたことに、ギョっとさせられた。
一見、大人の対応で折れてくれたように見えて、どこか漂う違和感を払拭できない。

これはもしや
『人の弱い部分に鋭く切り込んで自覚させるけど、あなたのそんなダメさも含めて、わたしの懐で受け止めてあげるよ。こんなわたし素敵でしょ?』というパフォーマンスにまんまと引っ掛かり、丸め込まれたんじゃ、と感づいてしまった。

でもそれを発揮させる舞台を作ってしまったのは、間違いなく自分だから、潔く謝るのが筋と思った。

筋を通した後に『要するにあなたは自信が無いってこと』と、まとめあげられて、本当にその通りだなとは思った。(でもその総括って誰のために?)

そんなで事態は収束したのだけれど、それから自分が取った行動が、更にもうひとつ良くないものだった。

その愛の人が、自分の哲学をSNS上で披露する度に
『やっぱりYさんは真理を見通せているんですね~』なんて大袈裟が過ぎるほどに褒めちぎり、媚び始めた。
そうすれば彼女側も満たされている、そんな手応えもあった。

その肚の内は『凄い人なんだから、内面の恥部を指摘されても仕方が無いよね、注意してもらった事に感謝しなきゃ・・・』なんて、行き場のない悔しさに折り合いを付けるための、自分なりの必死な策だった。
当人が居ない場でも、馬鹿の一つ覚えみたいにその人の話題を出しては、特別な人と肯定ばかりをしていた。

『Yちゃんは、自分は特別だって思われたがってるところもあるんだ』と、共通の友人からこっそり告げられた時も、すっとぼけて、何も分かってもいない風を貫いていた。
本当は、向こうの魂胆は透け見えていたし、欲しいものの見当も付いていたっていうのに。

だけど数ヵ月が経って、SNS上のいさかい合いの終始を見ていた別の友人から
『どうしてあの人、アリサちゃんに対してあんなに上から目線なの?すごく不愉快だった』と言われ、とうとう自分を誤魔化すことが出来なくなった。

『そうだ。わたし本当は、感謝以上にすごく傷付いたんだよな』
目線がどの向きから寄せられたかなんて、本人以外に分かりっこないし、傷付いたことを切に訴えたいわけでもない。事態を招いたのは自分のせいと、うんと踏まえてもいる。
だけど、あんな愛の形、わたしはこれっぽっちも好きじゃない!そして、欲しいと言った覚えも一切ない!

『発言に気を付けよう』よりも『これから何があっても、誰かの弱さを人前で晒すのはよそう』の決心の方が深く刻まれた事実の中にも、本心はばっちり秘められていたっていうのにな。

そして、言葉に詰まって自分の想いを上手く伝えられない人よりも、饒舌で大それた言葉を使う人の方がモノを知っているだなんて、浅すぎる考えだから一切やめよう、“言い負かした” と感じた時点で圧倒的に敗けていて、大切なものから遠ざかってゆく事を、しかと覚えておこうと思った。

それからその人の投稿を目にしては、苛立ちが募るばかりになった。だけど、へりくだっていた間のわたしだって『ここでこう言えば気持ちいいんでしょ?』と、半分彼女を馬鹿にしていたんだと自覚をした。

もし彼女へ報復をしたいなら、従順なフリをして、時間をかけて誉め続け、向こうがこちらを拠り所にするぐらいの関係になったところで、いかにもな理由をつけて
『そんな人だと思わなかった幻滅した』と掌を返せば、結構なダメージを喰らわせられるはずだ。
でもそれは、自分も最大限まで傷付いて、立ち直れなくなるやり方だから、絶対に選んだりはしないけど。

そんな経緯もあって、1年ほど続けたそのSNSを退会することに決めた。その際は一括ではなく、投稿してきた言葉をひとつずつ確認しながら削除をした。

なんて稚拙なんだろう、と感じるものがいくつもあって、あの人の注意によって、後々味わうはずだった恥をすり減らしてもらえたんだ、助けてもらったのも本当の事なのだと痛感した。

そのあと転職なりで交遊関係も変わって、その人と顔を合わす機会もすっかり無くなったのだけど、去年偶然にも再会した時に、こんな感じの人だったなぁと、感情が激しくふれることもなく、淡々と関われている自分がいた。

もし誰かから挑発されて、何かの奪い合いが始まりそうになったとしても、その線上からひょいと降りてしまえば、何てことないわけだ。

そしてかつての分析通り、誰かと比較しがちだったのは、まだまとまりきるには少し早い、年頃のせいもあったのかもしれないなぁと、あの頃を懐かしんだ。

あの人が世界へ愛の革命を起こす、神様の化身だったのかもしれないけど(きっと誰かにとってはそう)
わたしの感受性がそれをすくい上げられなかったのなら、それはそれで、仕方の無い事なのだ。

* *

お付き合いが続いている、学生時代の先生からの手紙に、知性がたっぷり込められたような筆記で
『あなたは本当に、優しい娘さんだと思う』と書かれていた。

なんだか先生に、直接見つめながら言われたみたいで照れてならないし
『そればかりでもないです、効果覿面な報復を思い付いたりします』なんて、いつか自分の別の側面を見せて、落胆させたらどうしようと不安になった。

けれど、その想いをそのまま返事へしたためたとしても
『人間だから、そういう面もあるだろうね。でもわたしが感じたことだって真実には違いないと思う』
そんな言葉を返してくれそうな気がした。

それは『ずっと優しいあなたでいてね、わたしの理想のかたちを保ってね』とは、似ているようで雲泥の差があるし、繊細な話でありながらも、その発言の奥にある魂胆がどちらかを、絶対に皆見抜いていると思う。

優しく振る舞わなきゃ愛されないから、なんて縛りからではなく、好きと思う自分といたいから、なるべく人に優しくありたい。わたしに小さな希望を見いだしてくれてありがとう、と伝えたくなった。

貰った言葉を、自分の身へ染み渡るほどに傍に置くのもしっくり来なかったので、ちょっとした棚みたいなところに飾っておくことにした。
それを時々見つめに来て、照れたり、恥ずかしくなったり、少し誇れたり、心の差異でその時の自分を測ってゆく。

今日は何だか、とても手の届かない言葉に思えるのよ。
もうちょっと、笑顔をこぼせたら良かったのになぁ。
遠い、遠いなぁ・・・

Arisa