言葉のランドスケープ

日々のときめき・きらめきを見つめて

言葉と透みきった泉と

先日、まったく音沙汰なんてなかった人から、唐突に一通のメールが届いた。

あらどうしたのだろう、と内容を確認してみたらば
“ 近々開催されるイベントがあって、それがすごくおすすめだから、大好きなあなたと参加したいです ” と書かれていた。

『わたしを!選んで声をかけてくれたんだ!』と、冬の寒さで眠りこけそうだった心は跳ね起きて、指をいちいち弾ませながら詳細を尋ねるメールを送ったら、しばらく時間があいたのちに返事が戻ってきた。

そこにはそのイベントがいかに有意義で、貴重で、素晴らしい機会なのかということがつらつらと、ふたたび大好きという言葉を織り交ぜながら述べられていた。
すこし、妙な隙も感じさせながら。

なにか、おかしい。小気味がよくない。
膨らみきっていた嬉々とした気持ちが、勢いをもって萎んでゆくのが分かった。

単語ひとつずつをまじまじと見つめても、後ろ向きな印象を指すものなんてどこにも見当たらないし、この調子でメールがあと100頁続いたとしたって、誰かを蔑んだり、陥れたりするような内容へ到達することも、きっとない。
それでも文面全体に、薄暗いモヤみたいなものが覆られているように感じられてしまう。

『そんなはずないけどなー。だって、あの人とやり取りを交わせた時間はそう長くはなかったけれど、共有し合えた言葉や世界は本当にきれいで、心へ染み渡って元気をくれたもの。
あの場面の延長にあるこのメールにだって、同じだけの明度が保たれているはず。わたしの目に光と力が足りていないだけ』

そう言い聞かせて、文面を見つめてみるものの、言葉の細部と全体が調和する気配もなく、好き勝手に振る舞っているようで、針の穴ほどの光も拾えずじまい。

少し疑いの気持ちを抱いた途端に、相手がわたしの肩越しに、誰かを見つめていることに気が付いた。
『この人が本当に心から好きなのはわたしじゃない、イベントの主催者だ』

焦点は好きな人にしっかりと合わせたまま、その視界の範疇に、わたしや、わたしと同じような関わり方をした他の何十人もを後から配置しただけだ。
向けられた “ 好き ”の気持ちは、本命の人へ向けた分のおこぼれでもあるんだ。何を浮かれていたんだろう。

大切な人のために、自分が持っているものを駆使して奔走する。
その二人を中心にして眺めれば、紛れもなく美しい行動だろうし、それだけの相手を見つけられたとしても、ふとしたはずみで失ってしまうことも知っているから、願わくばその想いが、なるべく永く久しく続いてくれたらとは思う。

その人の数ある内の一面を見ただけであって、悪意を向けられたわけでもないし、人へ話したらよくあることだよね、と諭されもした。
身を置いてきた環境によって言葉の水準は違うし、嘘をつかれたという心象もないし、このことを教訓にひとつ賢くなれたらわたしも儲けもの、と結んでおしまいにできる。

それでも、今挙げたそれだけのことを踏まえても、わたしの中に少しだけ、不愉快な気持ちは残った。
言葉の威力を以て、相手を自分の意に沿わせてうまく運ばせようとして、そこに多少の好意はあったとしても、敬意はどこにあるっていうの?

実力以上の分までもたくさん欲しがって、魅力ある言葉をあちこちへばら蒔いたり、遠くまで飛ばしてしまったら、手綱を離れたその言葉たちが、厳しい表情をしながら自分の元へ舞い戻ってきてしまうっていうのに、それが恐くないの?と問いたくなった。

* *


それだけささやかな事を、じっとり観察していたにも関わらず、先日、わたしも自分が放った言葉から、アッパーカットを喰らってしまった。

おだてに乗って、心と口先が解離して、言葉をそこらへ放り投げる、ひどく雑な振るまいだったように思う。
引き返してきた言葉には俊敏に気付けたけれど、直ぐ様打ちのめされて、恥ずかしくてたまらなくて、自分の全部を取り替えてしまいたくなった。

慰めの言葉をかき集めて、細くなったところへ肉付けしてしまえば楽になれるけど、羞恥心を鈍らせたくないと思う。
動じなさに憧れもあるけれど、また元の位置へ戻れる自分を信頼して、思いきり心を揺れ動かせることだって、いずれ力になのだと信じていたい。

こういう場面でいつも、親しい友人が過去にかけてくれた、忘れがたい言葉がよみがえってくる。

まだ学生の頃、自分の悩み事はさも前人未踏なもののように大げさに騒いで、いつもそれを親友である彼女に聞いてもらっていた。
彼女はわたしのみっともない部分を、そうは見えないように、上手に繕ってくれていたことに気付いたのは、うんと時間が経ってからだった。

その日も電話で話した後に、聞いてくれてありがとうね、と彼女へメールをしたら
『話を聞いてアドバイスしたりするけど、いつも電話を切ってから、もっと別の表現や提案があったんじゃないかな?って考えてしまうんだ』と、すぐに戻ってきた返事を読んで、心の底から自分の幼さを恥じた。

気が済むまでペラペラ話して、すっきりしていた本人をよそに、彼女はわたし以上に、まだ “ 悩んでいるわたし” の傍について、どうすれば力になれるかを慎重に探り当てようとしてくれていたのだ。
彼女の優しさの奥行は測り知れないな、もうずっと敵わないんだろうなと感じた。

幼かったから、目立つものに価値があると信じていたし、すぐに答えが欲しかったから、正解を示してくれそうな、自信ありげに声を通す人に惹き付けられてばかりだった。

だけど、とんちんかんなアドバイスしか出来なくても(彼女の提示するものは的を得ていたけど)
優しい目線をお伴に、最大限まで寄り添ってくれる人の方がうんと貴重で、末長く付き合っていける相手なのかもしれない、そんな予感をも彼女は授けてくれた。

みんな、自分の事情に追われてせわしないから、彼女のように自分の発言を顧みてばかりいられないかもしれない。
でも、言葉への畏怖の念は本来みんなして持っているもので、それを忘れずに思慮深く発言できる人の言葉に、いつも目を覚まさせられてばかりいる。

そしてつい最近、友人本人へこの昔話をしたところ
『そんなこと言ったの覚えてないなあ。でも、いまだにそんな風に思うことあるかな』と言うものだから、彼女が自分の内側で確実に彼女らしさを育てていることに、また心は嬉しさで満ちていった。

まるで、秘境にある透みきった泉に身体をあずけたら、見栄や意地が自分から溶けだしてゆくような。
そんな心地の良さに、浸されているようだった。

Arisa